新しいイタリアのコーヒー文化の潮流
“イタリア好き”の人なら、よもやイタリア人が「マンジャーレ、カンターレ、アモーレ」ばかりではないってことは百も承知でしょう。それでも日本の人が頭に描くイタリア人像は「陽気で情熱的」「フレンドリー」とか「ルーズで」「女好きで」? まったくもって正解なのだけれど、イタリアに長く住んでいると、それとは全然違う、イタリア人のある側面に気がつきます。それは
「とてもせっかち」ということです。
車を運転していて、赤信号の先頭で止まっている私が、青に変わって1秒ほどうっかりしようものなら、すかさず後続車からクラクションの大攻撃。大袈裟に言っているのではなくて、本当に1秒発進しなかっただけで大変な大騒ぎです。法定速度を守って安全運転していれば追い抜かれ、追い越しざまにはイライラ視線や意地悪ジェスチャーを投げかけられるのも日常茶飯事。仕事の会議や学校の授業が長引けば、貧乏ゆすり、爪を噛む、イライラ、イライラ。いったい何をそんなにイライラしているの?と相談にのってあげたくなるほど。意外かもしれませんが、本当の話です。
そんなイタリア人のせっかちな気質にピッタリとマッチして、イタリアが世界に誇る文化に成長したもの、それが「エスプレッソ・コーヒー」です。エスプレッソとはご存知の通りエクスプレスという意味なので、超特急のようにさっと作って、さっと飲める。イタリアでバールに入ると、バリスタがバンバン!と淹れ終わったコーヒーを捨てて、キュキュッと新しい粉を詰め、素早くカフェを淹れてくれる姿に見惚れてしまったことがある人も多いのではないでしょうか。お客の方だってパッと頼んでさっと飲み干してさっそうと出ていく。ゆっくり座って飲む人はよっぽどの暇人か、何か特殊な用事でもある人かもしれませんね。
そんなイタリア人のせっかち気質とエスプレッソの関係に異を唱え、イタリアのコーヒー文化に革命を起こした人がいます。
トリノの起業家、アレッサンドロ・ミネッリ氏は、2014年、おそらくイタリアで初めてと言われる、コーヒーのクオリティに注目したカフェをオープンしました。「Orso Laboratorio Caffe」(オルソ・ラボラトーリオ・カフェ)は、味にこだわる人や、世界のサードウェーブの流れに敏感な若者たちから注目を浴び、あっという間に知る人ぞ知る人気店になっていきました。
「イタリアにはエスプレッソコーヒーに根付いたコーヒー文化があって、コーヒーを生産する大企業がいくつもあります。そういう企業は、イタリアの経済が急激に発展した時代と並行して、売れることだけを目指してきたんです。その影響でバリスタの技術や豆の品種、焙煎方法などについて語られることはなく、一般大衆はそういう側面へ興味を持つことはなかった。クオリティという考え方は生まれなかったんです」という。え? イタリアの一般大衆は、コーヒーがおいしいかまずいかをあまり考えなかったんですか?
「もちろんエスプレッソにだってクオリティはあるし、あの店のカフェはおいしい、まずいと考える人も一部にはいます。でも、エスプレッソコーヒーをめぐる習慣やジェスチャー、つまりバールに行ってカフェ(エスプレッソ)を飲むということがイタリアのシンボルになっていって、そっちばかりが大事にされていったんです」
たしかに、周りのイタリア人たちを見ていても、バールを選ぶ基準は毎日通っている馴染だから、便利な場所だから、であって、あそこのカフェがおいしいから行こう、とはあまり考えないように見えます。
「豆に濃く焙煎をかければ、そのコーヒーが持つ欠点も隠されてしまいます。コーヒーはとても苦くなるけれど、その苦味が豆の欠点を隠してくれる。イタリアンローストはその典型です。そして苦いから砂糖をたっぷり使うことが推奨されてきた。そうするとあまりおいしくないコーヒーでもおいしく感じてしまっていたんです。イタリアのエスプレッソの残念な歴史なんです」
そんなイタリアのコーヒーに対するアプローチに変化を起こしたいとオープンさせた「Orso Laboratorio Caffe」では、フィルターや水出しなど、さまざまな抽出方法で豆自体の個性が味わえます。もちろんイタリアのコーヒー文化を否定するものではないので、優秀なバリスタが丁寧に淹れてくれるエスプレッソやナポレターノなども、未体験のおいしさです。でもオーナーのアレッサンドロさんが何よりイタリアの人に知って欲しかったのは、コーヒーには種類によって、産地によって、栽培方法によって、いろいろな味わい、個性があるということだといいます。
「イタリアはコーヒー文化の国なのに、コーヒーのことをほとんど知らずにみんな飲んでいる、それがとても残念だったんです。コーヒー豆はワインにとってのぶどうのようなものですよね? ワインなら、みんな自分の好きなぶどう品種、産地にこだわってワインを選ぶのに、コーヒーにはその考え方が存在していなかったのです」。
たしかにイタリアで一般的に売られているコーヒーを眺めていると、「エスプレッソマシン用」「モカ用」という分類はあっても、コーヒー豆の産地が書かれていることはあまりないことに気づきます。
「オルソ」の店内を眺めると、コの字形をしたバンコーネ(カウンター)は先が細くなっていることに気が付きます。
「船首をイメージして作りました。キャプテンが船を運航するように、ここはバリスタが世界のコーヒーを体験する旅にお客様を案内する場所なんです」
だからカウンターの奥の壁には、コーヒーの生産地が書き込まれた世界地図も描かれています。さまざまな生産地、さまざまな農園や栽培方法の個性豊かなコーヒーたちの味や香り、そして生産国や生産者の個性や暮らし、歴史を感じる旅を楽しんでほしいと、アレッサンドロ氏は自慢の店内を眺め目を細めます。
一杯目はウガンダの豆でエスプレッソを、そして2杯目にはエチオピアの豆をフィルターで淹れてもらいました。若いけれど優秀なバリスタが、まるでお茶道のように丁寧に、私のために淹れてくれる一杯を待っていると、コーヒーのいい香りが鼻をくすぐり始め、全身がリラックスしていくのを感じます。周りを見回すと、コーヒーを飲みながらノートパソコンを広げて勉強をする女子学生、新しい体験にワクワクしている様子の老カップル、豆にこだわったエスプレッソのおいしさに目を細める男性客や、遅い朝食を楽しむ小さな子供連れの家族客まで、いろいろな人がコーヒーを味っています。いつものバールで「ウン・カッフェ、ペル ファヴォーレ!」と言って、エスプレッソをさっと飲み干して元気に忙しく1日が始まるような、あの楽しい感じとはまた別の、新しいイタリアの食と文化のスタイルが誕生している気がしました。