ヴァッレ・ダオスタ州-世界を見下ろす峰の麓に育つジャガイモ
北イタリアは、このところ日中でも零下。身を切るような寒さが続いています。そんな日の夕方はやっぱり、体を温めてくれる野菜たっぷりのズッパが一番。ちょっとパプリカを利かせれば体の芯からあたっまる!、、、と、夫が食物庫から何やら持ってくると、アルミホイルに包んでホイッと暖炉に投げ込む。付け合せに、アオスタから届いたジャガイモをね、ホクホクに焼いて野菜の酸味とパプリカの辛味がアクセントのズッパにあわせるのですよ。山岳地帯で収獲されるこのジャガイモは平地で取れるものより糖分が高く、カロリーも高め。が、ポテトフライ用はなんとも味わい深く、肉じゃが用はお肉のコクにピタリとくる!
ふとそんな特別なジャガイモを作っている青年たちのことを思い出しました。
今は誰も見向きもしなくなった小さなジャガイモたちを何種類も、その種を絶やさないようにと願いながら育てている彼ら。感動して、イタリア国内で紹介するために書いた記事の日本語版が手許にあるので、紹介します。ちと、眺めですが、彼らに免じてお許しいただくとして、、、
ブオナ・レットゥーラ!
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アオスタの美しい自然の中で
おおばこ、たんぽぽ、スイカズラ、厚い緑のじゅうたんが足のつま先に触れる。草の名前を一つずつ口にするうち、草の間に埋もれたサヴォイキャベツのルビー色が目に入った。その葉先で朝露が揺れる。
「2分でそっちに行くから」販売所に来た客の応対に向かうフェデリーコの明るい声が背中に聞こえた。
「ああ、お構いなく」クローバー、ニンジンの葉、ユキノシタ、セロリにスズメノテッポウ、、、様々な野草と野菜が混在する3500㎡の愉快で健康な畑。あちこちで麦の穂も揺れていた。
固いスイカズラの葉をつまんで口に入れると優しい酸味が口に広がる。 秋晴れの空に顔を上げると彼方でモンテローザの連山に生まれた雄大な氷河がこちらを横目で見下ろしていた。その下で牛たちがのんびり草を食む。
『Paysage à Manger(ペイザージュ・ア・マンジェール=かぶりつきたくなる風景)』 アオスタ渓谷州グレッソネイ=セント・ジェンのこの場所に立てば自然にこの名前が口をついて出る。 これが、この山岳地域に暮らすリータ、レレ、ロベルトそして中心となる二人のフェデリーコの若い5人が作った農業生産者の名前。ジャガイモを中心にこの山岳地域に昔は普通にあった、でも、今では希少になった作物を自然農法で栽培販売している。
変わった色や形のジャガイモが並ぶ賑やかな売り台の前で食べごろの野菜の名前を次々に客に告げるフェデリーコの声がする。彼はおもむろにカゴを手に取ると目当ての野菜を採りに畑に駆けてきた。「どうだい?ここより新鮮な野菜がどこで買える?」すれ違い際に私にそう言って笑った。 いつの間にか売り台の前で待つ客の数は6,7人に増えていた。荷物運びに高校生の孫を連れてきた老女、モンツァから来たトレッキングが趣味の夫婦、ビエッラやヴァレーゼから週末に遊びに来た子供連れ。フェデリーコと一緒に畑に入る客もいる。時間を惜しむことなく土から引き出したばかりの根菜を手にその野菜を説明する。『Pastinaca Hollow Crown(にんじんの仲間)』、『Rafano Tondo Nero (黒々した西洋ワサビ)』, 『 Carote Mezza Luna Nantese (白っぽい人参さん)』 、彼らがつくる80種の作物にはどれも語ることが山ほどある。
昔の花嫁が作物の種を守ってきた
彼らの作物づくりは種の発掘から始まる。ネットも使う。が、スイスにある『Pro Specie Raraプロ・スペーチェ・ラーラ(希少品種支援協会)』という団体との出会いが大きかったという。自分たちの足でも探してもそう簡単には見つからない。それでも、昨年、フォンテンモーレ(Fontainemore)では栗を買うつもりで入った農家で老婆が手にしていた紫の豆の鞘が目に留まった。それが何かと聞くと90歳になる老婆は『大したもんじゃない、これは昔のものさ』フェデリーコは震える気持ちを抑えて言った『ちょっと、ちょっと、話を聞かせて!』
1800年代のこの地域では、花嫁道具に日常の野菜の種が含まれていた。翌年の作付に備えた種の保存は一家の女の仕事で、風で種を飛ばさないための工夫など、あらゆる種取の知恵を心得ていたという。彼女の話に一心に耳を傾けると、興味があるなら別の人にも話を聞いたら知り合いを紹介された。そこからまた別の人と伝統野菜の輪が広がった。ある女性はLavazzaのコーヒー缶に入った種を持って行けと手渡してくれた。バレリアーナの種で、彼女の曾祖母の花嫁道具だったものだという。彼の心は踊ったことは言うまでもない。 苦労して方々に聞きまわっても見つからず諦めかけていたアオスタ産の古い種の作物は、収量の低さから脇に追いやられていただけで、お年寄りの間では昔と同じように大切に保存されてるところもあると知った。 が、苦労して手にした作物も何でも育つとは限らない。グレッソネイは標高1200メートルほどのところにあり、一つ下の村で育つ作物も寒さなどの為に育たないことがある。2014年に生まれたばかりの若い生産者の彼らには、まだまだ日々の格闘が続く。
無力な命の番人たち
少年が両親に連れられてやってきた。父親が息子は家で野菜作りをしているというと嬉しそうに言う。少年の真剣にジャガイモを見つめる目に『この小さなジャガイモをもっていったらいい。来年の種になるから』と言って、フェデリーコは買い物袋にパラパラと放り込んだ。嬉しそうな子供に父親が隣でいたずらっぽく『来年までもつかなぁ。美味すぎるからなあ。そこが問題だなあ』と笑った。
『Buccia Viola di Ueterndorf (ウェーテンドルフの紫芋), Verrayes (ヴァッレイス), Buccia Blu di Bristen (ブリステンの青じゃが), ジャガイモは2,3種買っていく客が多い。フォンテンモーレで栽培される彼らの20種余りのジャガイモはどれも独特の濃い味わいがある。
長いリサーチ、山の厳しい気候条件の中での栽培、だから彼らの野菜は決して安くはない。それでもジャガイモに根菜、葉菜、抱えきれないほどの野菜を喜色満面で買い求める人々。 どこでだってこんな形の農業経営ができるとは限らない。グレッソネイという、遠方からでも人々が喜んで訪れる村で、自分たちが手のかかる自然農法で直接手をかけられる最大限の作付面積、栽培する作物に付加価値と愛情を与えられる、それを買い手に伝える知恵と若い力、そのどれが欠けても絶対に上手くはいかなかっただろう。 露天販売にはいつでも客が訪れるわけではない。生活も決して楽ではないが、それでも満足しているとフェデリーコが言った。
小さな世界の片隅で淡々と無力な命の番人をする人たちがいる。これまでイタリアの生産者を数多く訪ねてきたが、心を動かされる生産者と言えば、偉大な伝統を次の世代に委ねようとする側の人たちがほとんどだった。イタリアは委ねられる側にも狂信的にならず、商業的過ぎず、こんな人たちがいると知って、嬉しいような羨ましいような気がした。
野菜を詰めて客に差し出す紙袋をフェデリーコが片手で捻ると袋は中に詰まった空気でふっくらした。中には野菜やジャガイモと一緒に、畑で彼が語ったその野菜の物語も詰まっているように見えた。
http://www.paysageamanger.it/
日本語でのお問い合わせは E-mail:m.iwasaki@alice.it まで
ふとそんな特別なジャガイモを作っている青年たちのことを思い出しました。
今は誰も見向きもしなくなった小さなジャガイモたちを何種類も、その種を絶やさないようにと願いながら育てている彼ら。感動して、イタリア国内で紹介するために書いた記事の日本語版が手許にあるので、紹介します。ちと、眺めですが、彼らに免じてお許しいただくとして、、、
ブオナ・レットゥーラ!
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アオスタの美しい自然の中で
おおばこ、たんぽぽ、スイカズラ、厚い緑のじゅうたんが足のつま先に触れる。草の名前を一つずつ口にするうち、草の間に埋もれたサヴォイキャベツのルビー色が目に入った。その葉先で朝露が揺れる。
「2分でそっちに行くから」販売所に来た客の応対に向かうフェデリーコの明るい声が背中に聞こえた。
「ああ、お構いなく」クローバー、ニンジンの葉、ユキノシタ、セロリにスズメノテッポウ、、、様々な野草と野菜が混在する3500㎡の愉快で健康な畑。あちこちで麦の穂も揺れていた。
固いスイカズラの葉をつまんで口に入れると優しい酸味が口に広がる。 秋晴れの空に顔を上げると彼方でモンテローザの連山に生まれた雄大な氷河がこちらを横目で見下ろしていた。その下で牛たちがのんびり草を食む。
『Paysage à Manger(ペイザージュ・ア・マンジェール=かぶりつきたくなる風景)』 アオスタ渓谷州グレッソネイ=セント・ジェンのこの場所に立てば自然にこの名前が口をついて出る。 これが、この山岳地域に暮らすリータ、レレ、ロベルトそして中心となる二人のフェデリーコの若い5人が作った農業生産者の名前。ジャガイモを中心にこの山岳地域に昔は普通にあった、でも、今では希少になった作物を自然農法で栽培販売している。
変わった色や形のジャガイモが並ぶ賑やかな売り台の前で食べごろの野菜の名前を次々に客に告げるフェデリーコの声がする。彼はおもむろにカゴを手に取ると目当ての野菜を採りに畑に駆けてきた。「どうだい?ここより新鮮な野菜がどこで買える?」すれ違い際に私にそう言って笑った。 いつの間にか売り台の前で待つ客の数は6,7人に増えていた。荷物運びに高校生の孫を連れてきた老女、モンツァから来たトレッキングが趣味の夫婦、ビエッラやヴァレーゼから週末に遊びに来た子供連れ。フェデリーコと一緒に畑に入る客もいる。時間を惜しむことなく土から引き出したばかりの根菜を手にその野菜を説明する。『Pastinaca Hollow Crown(にんじんの仲間)』、『Rafano Tondo Nero (黒々した西洋ワサビ)』, 『 Carote Mezza Luna Nantese (白っぽい人参さん)』 、彼らがつくる80種の作物にはどれも語ることが山ほどある。
昔の花嫁が作物の種を守ってきた
彼らの作物づくりは種の発掘から始まる。ネットも使う。が、スイスにある『Pro Specie Raraプロ・スペーチェ・ラーラ(希少品種支援協会)』という団体との出会いが大きかったという。自分たちの足でも探してもそう簡単には見つからない。それでも、昨年、フォンテンモーレ(Fontainemore)では栗を買うつもりで入った農家で老婆が手にしていた紫の豆の鞘が目に留まった。それが何かと聞くと90歳になる老婆は『大したもんじゃない、これは昔のものさ』フェデリーコは震える気持ちを抑えて言った『ちょっと、ちょっと、話を聞かせて!』
1800年代のこの地域では、花嫁道具に日常の野菜の種が含まれていた。翌年の作付に備えた種の保存は一家の女の仕事で、風で種を飛ばさないための工夫など、あらゆる種取の知恵を心得ていたという。彼女の話に一心に耳を傾けると、興味があるなら別の人にも話を聞いたら知り合いを紹介された。そこからまた別の人と伝統野菜の輪が広がった。ある女性はLavazzaのコーヒー缶に入った種を持って行けと手渡してくれた。バレリアーナの種で、彼女の曾祖母の花嫁道具だったものだという。彼の心は踊ったことは言うまでもない。 苦労して方々に聞きまわっても見つからず諦めかけていたアオスタ産の古い種の作物は、収量の低さから脇に追いやられていただけで、お年寄りの間では昔と同じように大切に保存されてるところもあると知った。 が、苦労して手にした作物も何でも育つとは限らない。グレッソネイは標高1200メートルほどのところにあり、一つ下の村で育つ作物も寒さなどの為に育たないことがある。2014年に生まれたばかりの若い生産者の彼らには、まだまだ日々の格闘が続く。
無力な命の番人たち
少年が両親に連れられてやってきた。父親が息子は家で野菜作りをしているというと嬉しそうに言う。少年の真剣にジャガイモを見つめる目に『この小さなジャガイモをもっていったらいい。来年の種になるから』と言って、フェデリーコは買い物袋にパラパラと放り込んだ。嬉しそうな子供に父親が隣でいたずらっぽく『来年までもつかなぁ。美味すぎるからなあ。そこが問題だなあ』と笑った。
『Buccia Viola di Ueterndorf (ウェーテンドルフの紫芋), Verrayes (ヴァッレイス), Buccia Blu di Bristen (ブリステンの青じゃが), ジャガイモは2,3種買っていく客が多い。フォンテンモーレで栽培される彼らの20種余りのジャガイモはどれも独特の濃い味わいがある。
長いリサーチ、山の厳しい気候条件の中での栽培、だから彼らの野菜は決して安くはない。それでもジャガイモに根菜、葉菜、抱えきれないほどの野菜を喜色満面で買い求める人々。 どこでだってこんな形の農業経営ができるとは限らない。グレッソネイという、遠方からでも人々が喜んで訪れる村で、自分たちが手のかかる自然農法で直接手をかけられる最大限の作付面積、栽培する作物に付加価値と愛情を与えられる、それを買い手に伝える知恵と若い力、そのどれが欠けても絶対に上手くはいかなかっただろう。 露天販売にはいつでも客が訪れるわけではない。生活も決して楽ではないが、それでも満足しているとフェデリーコが言った。
小さな世界の片隅で淡々と無力な命の番人をする人たちがいる。これまでイタリアの生産者を数多く訪ねてきたが、心を動かされる生産者と言えば、偉大な伝統を次の世代に委ねようとする側の人たちがほとんどだった。イタリアは委ねられる側にも狂信的にならず、商業的過ぎず、こんな人たちがいると知って、嬉しいような羨ましいような気がした。
野菜を詰めて客に差し出す紙袋をフェデリーコが片手で捻ると袋は中に詰まった空気でふっくらした。中には野菜やジャガイモと一緒に、畑で彼が語ったその野菜の物語も詰まっているように見えた。
http://www.paysageamanger.it/
日本語でのお問い合わせは E-mail:m.iwasaki@alice.it まで